ごきげんよう、堅魚です。
私が愛用しているdアニメストアで、京都アニメーションの劇場版作品の配信が3月末で終わるとの事なので、アニメ版しか視聴していなかった「劇場版 境界の彼方 -I’LL BE HERE-」の過去篇/未来篇の両方を視聴した。
過去篇はアニメ版の劇場総集編にあたり、未来篇は完全新作となっていた。
触れる前にあらかじめ断っておく。
今回あえて日記の形式でブログにしたのは、「作品感想」と題して語れる程作品の記憶が残っていなかったからだ。
そしてこの「好きな作品なのに記憶が残っていなかった」事象について触れたいと考えた。
リアタイ当時の私には「セカイ系」という概念がなかったので、今回改めて視聴すると物語の大枠はっきり捉えられて以前より飲み込みやすく感じた。
が、総集編を見た上でも固有名詞が思い出せなくてイマイチ話についていけず、懐かしいどころか「中学時代そこそこに仲が良かった筈の友人と成人式で会ったら別人だった」くらいのキャラとの心の隔たりを感じてしまった。
「こんな事ならあの時高い金出して遠征してでも映画観に行くべきだったな〜」とかなり後悔した。
しかし2015年当時は今程アニメ映画を配給する映画館は少なかったし、自分にはお金も自由もなかった。
京アニは地道に劇場アニメ文化を築こうとしていた印象があるが、世間一般にアニメ映画が受け入れられるようになったのは2016年公開の「君の名は」以降という印象がある。
現時点での最新作の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、全国的に上映されていたし何なら地上波ゴールデンの金曜ロードショーで2週に渡って放送されたと言うのだから驚きだ。
やはり時代の変化は大きいのだと思う。
(て言うか、境界の彼方が2013年冬アニメって来年でもう「10年前のアニメ」の仲間入りなんだ。そんな前だっけ!?)
造詣に関しては、オタクの好きな要素と言うと主語がデカく雑語りが過ぎるが、各キャラの属性やデザインはいつ見ても色褪せないようなツボを押さえている。
萌え袖カーディガンに黒タイツと制服の魅力を拡張しつつ、ゆるふわボブカットにトレードマークとも言える赤縁メガネがよく似合う女の子。メインヒロインの栗山未来は無二のキャラデザインと言える。
戦闘アクションも美麗で、独特の微細な色使いがダークファンタジーな世界観を補強している。
血で凝固させた剣、マフラー、呪符、結界……etc. アニメで動かしたら映えるモノしかない。
劇場版という事もあって、総集編も戦闘シーンにはしっかり尺が割かれていたし、新編もド派手で見応えのあるアクションの連続で後半は息つく間もなく圧倒された。
物語の終わりにふさわしい理不尽チート能力設定を持ったラスボスが、思いの外あっさりと処理されてしまうのは勿体無く感じたがそこら辺は劇場版ならではなのかもしれない。
また、今回の映画はどこまでアニオリなのか気になった。
原作に触れていないので、ライブ回で印象的な6話がアニオリでそもそも愛ちゃん自体がアニオリキャラだという又聞き程度の知識しかない。
後から原作ファンから聞いた話だが、同じ「京都アニメーション大賞」小説部門からアニメ化した「中二病でも恋がしたい!」は、大幅なストーリー改編が入っているらしい。
ファンの方からは度々「どうにかして原作入手して読んでくれ」と懇願されるが、Amazonは品切れだし古本屋を回っても4巻だけ置いてあったりで、今では入手難易度がなかなか高いのが現実である。
今更ではあるんだが、自社レーベルで作品募ってアニメ化に際しては自分達のやりたいようにアレンジってなかなかいい性格してるなと感じた。
作家的には「あの京アニでアニメ化」ってデカいリターンがあるのでウィンウィンかもしれないが。
2018年公開の「映画 中二病でも恋がしたい Take On Me」の時にも作品の面白さとは別にうっすらと感じた、美化した思い出の中のあの熱量には到底及ばないし、あの頃には還ることは出来ないと言う小さな絶望はこのままオタクを続ける限り常に付き纏ってくるのだろう。
アニメ二期から四年後の完全新作劇場版という事で友達と四年前や八年前を懐かしみながら観に行ったが、あの時観に行かなかったら今日のように後悔していた事だと思う。
劇場で見ていてもやはり4年分の隔たりに寂しさを感じたし、それが作品の終焉、そして言い方は気に食わないがファンの“卒業”に繋がっていくのかもしれない。
長々と自分の喋りたいことを順序立ても曖昧なままベラベラと話してしまった。
完結から数年後に続篇をやってくれるのはファンとしては何より嬉しいが、どんなに好きだったモノでも当時程の熱量がもう還って来ないのは寂しい。
この小さな絶望の積み重ねが大人への階段なのか、はたまたオタクとしての余命宣告なのか。今はまだ知らない。